吉田 拓郎

吉田拓郎を初めて聴いたのは、中学2年の時。

H先輩のやっていた「フューズ」というバンドが「落陽」を演った時だった。ヒットした「結婚しようよ」や「旅の宿」なんかは知っていたけど、それは世間で流行っていたヒット曲の中のひとつでしかなかった。「落陽」が拓郎の作とも知らなかったが、この時の演奏はなんだかとても心に残った。中二の坊主にとって高校生の先輩はとても大人だったし、彼らの奏でる音楽はとても格好よく映っていた。

その次に印象に残ったのが「人生を語らず」。これはラジオで聞いて、すっげえ唄だと思った。唄を聴いて背筋がゾクっとする感じを受けたのは、これ以外にはフォルクローレで「クリスティーナとウーゴ」くらいのものだ。いったん気に入ると、とことんその人の唄ばかりを聴きまくるのは今も変わらない性癖で、「今はまだ人生を語らず」からさかのぼって、エレック時代のLPまで買い揃えた。広島フォーク村のときの「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」も入手。「オンステージともだち」の第二集はカセットでしか手に入らなかったなぁ。高校二年のときには、友人Mとバンドを組んで文化祭にも出た。「今はまだ人生を語らず」のLPジャケットの写真をまねて学生帽を改造し、拓郎がかぶっていたのに似た帽子を作った。ひさしにペンキで模様を書き、生まれて初めて手芸店に入って太目の黒い紐を買ってきて取り付けた。文化祭が終わったあとで捨てちゃったけど、我ながらよく出来ていたと思う。

音楽の授業の試験でも「伽草子」を弾いた。「シンシア」をやりたくて、ハモニカホルダーを買って、マウスハープをはさんでギターを弾きながら吹いた。ホーナー社のマウスハープをいくつかのキーで購入した。D、Aに、あとはB♭だったかな。このへんは拓郎がディランをみてやったのと一緒だ。「落陽」は、ほんとは高二の文化祭でフルにやりたかったのだが、高中正義のギターがコピーできずにあきらめた。その後もLP・CDを買い続け、ずっと追いかけてはいた。ただ音楽演奏に関する情熱は、高二の文化祭以後はだいぶ薄れ、音楽とのつきあい自体もオーディオ中心、聴取中心になっていった。

そんな中で、85年に行なわれた「One Last Night in つま恋」は、就職してから初めて行ったコンサートになった。ひさびさの「朝までやるぞぉ!」コンサートであり、これ以後はコンサート活動をやめちゃうだのの噂があった。個人的にはこのコンサートの翌日、つまり徹夜明けに上司の家でうちの課の宴会があって、帰りの新幹線で立ったまま半分以上眠った状態で帰阪し、京阪・楠葉駅までたどり着いたのを思い出す。ラストの「明日に向かって走れ」は発売当初はそんなに好きな唄ではなかったが、このコンサート以降、僕のカラオケ愛唱歌になった。

拓郎は1946年生まれで、ボクより13才年上、一回りほどの年齢差がある。さすがに10年以上離れていると別の世代になり、考え方がよく分からない事も出て来る。フォーライフ設立以降、「ローリング30」あたりが、一番そのギャップが大きかった気がする。なんか、たるいLPだなぁと思えたし、二枚組みにしてるけど聴きたい曲は少なかった。フォーライフ時代のLPの途中で、買わなくなった。

LPがCDになってから、「176.5」を久しぶりに買った。すぅっと楽曲にはいっていけた。結婚して、子供も出来て、こっちの聴き方も変わって来たのかもしれない。40才の拓郎と30才の僕とではギャップが大きかったのが、拓郎も50才、こっちも40才目前ともなるとちょっと追い付いてこれたのかもしれない。年を経るにしたがって、1年の長さは縮んでいくものだから。

10代なかばから20代前半のころの、歌詞に没頭して全曲言葉を覚えて聴いていた時代とは明らかに聴き方が違う。ずいぶんこだわらずに聴くようになった。思い入れや情熱が薄れたと言われるかもしれない。まぁでも、これが僕のスタイルなんだろうし、人にどう思われてもボクは僕なんだからしょうがない。神経を研ぎ済ませて音楽に対峙する、立ち向かうといった聴き方は、今の僕のスタイルではない。

でも、テレビのライブ中継をみたり生音楽を聴いたりすると、なんだかウズウズする感覚がある。いつかまた楽器を始めるだろう。慣れ親しんだフォークギターかもしれないし、まったく新しいのかもしれない。ずっと音楽とはいっしょで、格好いいおじさん、格好いいじいさんになって、おっさん同士のバンドなど演ってみたいものだ。

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